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スーダン (SUDAN)

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スーダン (SUDAN) : 

公式国名、スーダン民主共和国(Republic of the Sudan)。アフリカ北東部にある共和国。ナイル川の中・上流域を占め、東北部は紅海に臨み、西側にリビア砂漠が広がる。面積、1,886,068平方`。人口(2011年)は、34,320,000人、人口密度は、16.4人/平方`。2008年の調査結果が30,894,000人であったので、着実に増加している。人種、セム系アラブ人75%、ナイル系黒人25%。言語、アラビア語(公用語)、ディンカ語、ヌエル語。宗教、イスラム教スンニ派70%、原始宗教25%、キリスト教5%。首都は、ハルツーム、人口(1993年)924,505人。主要港は、ポートスーダンである。

エジプトリビアチャド中央アフリカエチオピアエリトリア南スーダンと国境を接し、アルジェリアコンゴ民主共和国に次いでアフリカ大陸で3位の面積を擁する。2011年の南スーダン共和国の分離独立前は、2,505,810平方`とアフリカ大陸最大の国土を有する国家であった。

西部のマッラ山を除き、標高200〜500bの低平な高原で、北部はヌビア砂漠西部にエネディ高原とマッラ山脈、中部はゲジラとよばれる潅漑地である。ビクトリア湖を発する白ナイル川とエチオピアからの青ナイル川が首都ハルツーム付近で合流し、国土の中央部を貫いて北流しエジプト領にはいる。

全般に乾燥気候だが、南下するにつれて降水量が増加する。北部は砂漠、南部は熱帯性の沼沢地となっている。気温は最も低い月でも20℃以上。酷暑の時期は4〜6月と9〜10月の2回ある。雨季は7〜8月であるが、たいへん不安定で降水量は年により大きく変化する。

アラビア人が用いたスーダンは、アフリカ北部で大西洋から紅海に及ぶ地域、地中海沿岸を除くサハラ砂漠以南のアフリカをさす。また、ヨーロッパ人の地域概念としては、かつてのフランス領スーダン(マリ共和国)と現在のスーダン民主共和国とを結ぶ東西に長い帯状の地域をさす。

国民の75%は農牧業に従事し、綿花、落花生、トウモロコシを栽培しているが、農耕地は全土のわずか5%。しかも農業技術の低さ、内戦、干ばつの三重苦で南部では極限の飢餓状態にある。鉱物資源は乏しいうえにほとんど開発されていない。工業は首都周辺に軽工業がわずかにあるのみ。アラブ産油国への出稼ぎと外国からの援助に頼っている。

かつてスーダンのナイル川流域北部はヌビアと呼ばれ、北に栄えた古代エジプトの影響を強く受けた地域で、古代エジプトの諸王朝は、勢力が強まるとナイル川沿いに南下して金や象牙の交易拠点を作り支配領域を広げ、国力が衰退すると撤退する事を繰り返した。紀元前2,200年頃に、南部から移動してきた黒人の集団がこの地域に「クシュ王国」を建国した。

エジプトが新王国時代に入るとクシュは滅亡されたが、紀元前900年頃、ナパタを都として再興し、やがて衰退したエジプトに攻め入ってエジプト第25王朝を建国した。第25王朝はアッシリアに敗れヌビアへと撤退したが、ヌビアの支配権は保持し続けた。紀元前6世紀半ばにクシュは首都を更に南のメロエへと遷都し、以後この王国は「メロエ王国」となった。メロエは牧畜とソルガムの農耕を主産業とし、更に鉄の産地としても知られた。

4世紀頃、メロエはエチオピア高原の「アクスム王国」に滅ぼされ、その故地は北からノバティア、マクリア、アルワの三王国に分かれた。三国ともに5世紀頃にキリスト教を受容し、以後1,000年近くキリスト教を信仰し続けたが、やがてイスラム教勢力に飲み込まれ、1505年にはイスラム教の「フンジ・スルターン国」が建国されてキリスト教勢力は消滅した。1596年には西のダルフールにもイスラム教の「ダルフール・スルターン国」が建国され、この地方は完全にイスラム化された。

1821年エジプトの「ムハンマド・アリー朝」が後のスーダン北部が征服し、次第に南部に支配を広げたが、エジプトそのものがイギリスの保護下に置かれ、イギリスの力を借りて支配を広げていった。しかし、1883年に「マフディーの乱」がおこり、1885年には、エジプト/イギリス軍のチャールズ・ゴードンを、ハルツームで戦死させ「マフディー国家」が建設された。

1898年、イギリスの英埃軍が「オムダーマンの戦い(オムドゥルマンの戦い)」等でマフディー国家を制圧したが、この十余年のマフディ国家の支配下で進出していたフランスのマルシャン部隊とイギリス軍が「ファショダ村(Kodok)」で衝突する「ファショダ事件」がおこった。この事件は、イギリスの南下政策とフランスの東進政策が背景にあったが、本国政府同士で話し合い、スーダンとモロッコの利権を交換し、1899年から再びエジプトとイギリスの両国による共同統治下に置かれた。

1924年以降は南北で分断して統治する手法を採ったが、北部を中心に独立運動が続けられ、1954年自治政府が発足し、1956年に「スーダン共和国」として独立した。しかし、独立運動の主体及び自治政府が北部のイスラム教徒中心だった為、1955年に「第一次スーダン内戦(南北内戦)」が勃発し、北部の「アラブ系」イスラム教徒と南部の主に黒人の非アラブ系(主にアニミズム、一部キリスト教徒)が戦った。

1969年、陸軍のクーデターで革命評議会が全権を掌握、国名を「スーダン民主共和国」に改めた。「第一次スーダン内戦」は1972年の「アディスアベバ合意」で収まったが、198=バシール准将がイスラム主義組織民族「イスラム戦線 (NIF) 」と連携して無血クーデターを成功させた。バシールは、「革命委員会」を設置して非常事態を宣言し、自ら元首、首相、革命委員会議長、国防相に就任し、NIFの主張に沿ったイスラーム化を推進した。1996年の議会選では欧米諸国との関係改善を図るバシール大統領派が圧勝した。

バシール大統領は2002年、イスラム主義中道派のウンマ党 (UP) の分派メンバーを閣僚に登用。更に中道リベラル政党「民主統一党」(DUP) の分派メンバーも入閣させる等、野党勢力の取り込みを図る事で、SPLAとの和平交渉と併せて柔軟姿勢を示した。2005年には、SPLMとの間で包括和平、半年後の暫定政府発足について合意に達した。2005年、SPLAの「ジョン・ガラン最高司令官」を第一副大統領とする暫定政府が発足した。暫定政府が6年間の統治を行なったうえで、南部が独立するかを決める事になった。

西部のダルフール地方3州でも2003年以降、アラブ系と非アラブ系の定住民フール人や遊牧民ザガワ人等との対立が激化し、「ダルフール紛争」が勃発した。双方が武装勢力を組織したが、特に政府の支援を受けたアラブ系の民兵組織「ジャンジャウィード」の勢力が強く、民族浄化をおこなったとして非難の対象となった。また、多くの難民がチャドに流れ込み、チャドとの関係も極度に悪化し、2004年アフリカ連合が監視要員の派遣を決定した。

2009年、ダルフールでの戦犯容疑(人道に対する犯罪などの容疑)で「国際刑事裁判所 (ICC) 」からバシール大統領に逮捕状を出されている。2010年にも、バシール大統領に「ジェノサイド(大量殺害)」犯罪容疑で2回目の逮捕状を発行した。

2011年1月9日、南部の自治政府による独立の是非を問う住民投票が行われ、南スーダン独立票が過半数に達した。この投票の為に国連はスーダン派遣団をおくり、住民投票監視団の一員として、元米大統領Jimmy Carterがスーダン入りしている。2011年7月9日に南スーダンは独立したが、南スーダンには石油など豊富な地下資源が眠っており、その境界の資源の帰属を巡って現スーダン政権との間に新たな混乱が生じている。

南北和平協定における協定事項の一つであるアビエイの境界を巡り、北部側が提案を拒絶しディンカ系住民を攻撃し、2007年末より戦闘が激化、2008年には正規軍同士が衝突するに至った。2011年、スーダン軍は、南スーダン北部ユニティ州イダや上ナイル州の難民キャンプを爆撃した。また、同軍は南コルドファン州と青ナイル州でスーダン人民解放運動・北部(SPLM・N)民兵の掃討作戦を進めている。また、2012年3月には、ヘグリグ油田を巡って、南スーダン軍が同油田に侵攻し「南スーダン・スーダン国境紛争」が発生した。

スーダンには世界遺産が一つ存在する。スーダン北部のハルツームの約400`北、ナイル川の屈曲部沿いにある高さ98bの小山「ゲベル・バルカル」周辺の遺跡には、少なくとも13の神殿と3つの宮殿が含まれ、アモン神殿のような大神殿は、地元民から神聖視されていたと見なされている。2003年に周辺のナパタ地方の遺跡群と共に、◆『ゲベル・バルカルとナパタ地方の遺跡群』の名称で、世界遺産に登録されている。

「スーダン民主共和国」の風景はこちら

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2015年07月09日 | 仕向地ミニ情報 | アフリカ一覧

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