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ギニア (GUINEA) 

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ギニア (GUINEA) : 

公式国名、ギニア共和国(Republic of Guinea)。面積、245,857平方`(本州の1.1倍)。人口(2012年)、10,500,000人。人口密度が38人/平方`と非常に低いが、2008年の推計人口10,069,000人と比較すると4年間に4.3%近い増加をみせている。人種構成(2012年)は、スーダン系緒族(マリンケ族35%、フーラ族38%、スースー族15%)、ガーゼ族5%、キシ族3%、トーマ族2%、その他。言語、公用語はフランス語であるが、各民族には独自の言語(マリンケ、スースー、フーラなど)がある。宗教、イスラム教 86.7%、キリスト教8.9%、原始宗教7%など。首都は「コナクリ」

アフリカ西部、大西洋に面する共和国で、セネガルギニア・ビサウマリコートジボアールリベリアシエラレオネとの国境に囲まれ、海岸平野に続き、熱帯雨林の平野が広がっている。そこから内陸に入ると、標高は高くないが分水嶺をなす山地があり、草原が広がる。国土の中・東部には標高700〜1,500bの「フータ・ジャロン山地」が広がり、そこを越えるとサバンナが広がる「上ギニア」と呼ばれる地域となる。南端には熱帯雨林に覆われた「ニンバ山系」がある。西アフリカの給水塔といわれニジェール川セネガル川ガンビア川の3河川がこの国を源流としている。沿岸部は熱帯雨林、内陸部はサバナ気候を示す。1〜4月の乾季にはほとんど雨が降らず、6〜9月の雨季には3,500_を越える雨量がある。

2003年4月8日の『プロジェクトX・挑戦者たち』と2009年1月30日の『世界を変える100人の日本人! JAPAN☆ALLSTARS』によれば、1974年にセク・トゥーレ大統領が、日本政府にギニアの国土基本地図の製作を依頼。日本政府は、10億円を投じベテラン測量士で測量の鬼と呼ばれた本島建三を筆頭に、腕利きの測量師16人を含む日本人スタッフの測量隊を送り込み1978年〜1983年でギニアの国土基本図を完成させた。その為「オスマン・サンコン」曰く、ギニアの人々は、涙ぐんで本島建三の話をするという。

労働人口の80%が農業に従事する。独立時にはバナナ、パイナップル、コーヒー、ピーナッツ、パーム油が主要輸出物であったが、その後はボーキサイトに交代し、ダイアモンド、金などを含め、鉱業が主要産業となった。しかし、コンテ政権末期から経済状況は悪化し、貧困層が増大している。汚職、政治的不安定、不透明予算システムから外国からの投資が遅れている。

米国との間で投資保証合意がなされ、米国投資家には海外民間投資会社OPICにより政治リスクの保険がある。2005年にマリとの間に道路が新設されたが、補修ができず流通が不十分である。電気と水の供給不足が頻繁で長引く為、高価な発電機とその燃料を使用せざるを得ない。

アルミニウムの原料となるボーキサイトの埋蔵量は実に全世界の1/3を占めるほど豊富であり、その輸出額はオーストラリアに次ぎ世界第2位で、盛んに採掘されギニアの経済を支えている。2006年には、日本の三菱商事も探査権を獲得し、調査に乗り出していた。主要会社はギニア政府と米国の「アルコア社」「リオ・ティント・アルキャン社」との合弁で、年間1,400万dを輸出している。

他にロシア「ルサール(РУСАЛ)」もアルミニウムを生産し、「グローバルアルミナ」「アルコア・アルキャン」は各々20億j、15億jの精練事業を計画しており、サブサハラアフリカで最大の民間投資となる。

ダイヤモンドは政府と豪・英・スイスの合弁会社「AREDOR」が1984年から採掘・輸出している。金は政府とカナダ企業の合弁会社「SMD」が最大採掘企業である。鉄鉱石の開発事業も始まっている。沿岸のフォレカリア県では豪企業「Bellzone」が2012年6月より採掘を開始した。森林地方のシマンドゥ鉱区では「リオ・ティント社」などによる開発計画が進められている。2006年に米国企業「Hyperdynamics社」が石油探鉱契約をし、2011年10月より掘削調査を開始した。ウランについては可能性があるが調査が進んでいない。

12世紀にガーナ王国が滅ぼされると、スースー族は、反イスラムのスースー王国を興してベルベル人のムラービト朝に対抗した。 16世紀初頭に、ヨーロッパ人が奴隷貿易の地域の一つとして入植を始めた。1725年、フータ・ジャロンのTimboを王都とするフラニ人のフータ・ジャロン王国(1725年〜1896年)を興した。

1878年、サモリ・トゥーレがBissanduguを王都とするジュラ族のサモリ帝国(1878年〜1898年)を興した。1887年にフランスはロス諸島のトンボ島をイギリスから譲り受け、1890年にコナクリを首都とする植民地フランス領ギニアが建設し、1895年にフランス領西アフリカに併合した。

1958年に他の植民地に先駆けて国民投票で独立している。この時、宗主国であったフランスはギニアへの一切の援助を打ち切り、公共施設や道路を破壊しつくすなど国家テロに手を染め、国土台帳等の書類や公共施設にあった備品を全てフランス本土に持っていって仕舞った。その為、ギニアは世界最貧国に転落し、この状況を打開する為、セク・トゥーレ大統領は社会主義施策を敷き、政敵および人権論者の抑圧を行った。

1984年にトゥーレが死亡すると、無血クーデターにより、ランサナ・コンテ大佐が政権を掌握した。コンテは国際通貨基金や世界銀行などの国際機関からの支援を得つつ、自由主義体制への移行を推進した。1993年に初の大統領選挙が行われた後、1998年、2003年に大統領選で、いずれもコンテが当選した。しかしその選挙結果や、2001年の国民投票で大統領任期を5年から7年に延長するなど独裁色を強めたコンテの政治手法については多くの議論が交わされている。

2007年1月には、コンテ政権下における政治腐敗の横行や物価上昇・財政悪化に抗議し、大統領辞任と首相ポストの新設を要求する労働組合によりゼネストが発生。首都で発生したデモでは市民と治安部隊、警察の間で衝突が発生し、数十人もの死者、200人以上の負傷者が生じた。ストライキは18日間にも及び、コンテ大統領と組合間で合意が結ばれ終結が見られたものの治安は悪化。2月には、大統領が国家非常事態を宣言、戒厳令を敷いた。その後も不安定な政情が続いた。

首相の任命をめぐる政府と労組の立場は対立していたが、近隣諸国及び西アフリカ諸国経済共同体 (ECOWAS) 仲裁ミッションの働きかけもあり、2月23日に戒厳令は解除され、労組は同27日よりゼネストを中断することを発表。3月2日までに労組及び市民団体により推薦される首相候補の中から新首相を任命する事が合意され、新首相が就任した。

2008年12月22日、コンテ大統領が死去すると、翌23日、軍の一部勢力がクーデターを起こし、士官ら数千人の兵士がコナクリの国営テレビ局を占拠。陸軍・燃料補給部隊長のムーサ・ダディ・カマラ大尉がコナクリを制圧し、憲法停止や政府各機関の解散、軍人や文民から構成する評議機関「民主主義発展国家評議会」の設置を宣言した。

暫定大統領に就任したカマラは2009年中に選挙を行うと公表し、カマラ自身が選挙出馬を表明したが、側近のアブバカール・ディアキテ中尉による2009年12月3日の暗殺未遂事件で頭を撃たれ重症を負う。暫定大統領に就任した防衛大臣のセクバ・コナテ大将が大統領選挙実施を引き継ぎ、2010年6月27日に投票が行われ、同年11月7日大統領選挙の決選投票が行われた。野党指導者の「アルファ・コンデ」が僅差で勝利し、同年12月21日に大統領に就任したが、2011年7月19日、コンデ大統領の私邸が軍人の集団により襲撃される事件が発生するなど、2012年7月時点では、国民議会は存在しておらず情勢は混沌としている。

「ギニア共和国」の風景はこちら

※≪3つの「ギニア」: アフリカ西部、大西洋岸の地域の総称。「ギニア共和国」「ギニアビサウ共和国」、それに「赤道ギニア共和国」の3ヶ国がある。広くはモロッコ南部からアンゴラ南部までを、狭くはギニア湾に面する地域。16世紀〜19世紀にかけてヨーロッパ諸国の貿易港が開かれた。≫

ギニアビサウ共和国:

赤道ギニア共和国:

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2017年04月29日 | 仕向地ミニ情報 | アフリカ一覧

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