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アフガニスタン (AFGHANISTAN)

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アフガニスタン (AFGHANISTAN) :

アフガニスタン・イスラム共和国(Islamic Republic of Afghanistan)。通称アフガニスタンは、中東・南アジアに位置する共和制国家。総面積、652,225平方`。総人口(2008年)、28,150,000人。内陸国であり、分離したパキスタンが南及び東に、西にイラン、北にタジキスタントルクメニスタンウズベキスタンで、国の東端(ワハーン回廊)は中華人民共和国に接する。首都はカーブル
 
国民の平均寿命(2011年)が、48歳で、マラウイの47歳に次ぐ世界で二番目に寿命の短い国である。パシュトゥーン人タジク人ハザラ人ウズベク人トルクメン人等の数多くの民族が住む多民族国家である。

元々の国土はパキスタン北部まで広がっていたが、平野部はイギリスにより引きちぎられ、現在は山岳地帯が大部分を占めている。北部や南西部には若干平野部がある。最も標高の高い地点は、海抜7,485b のノシャック山である。国土の大半は乾燥しており、真水の入手できる場所は限られている。

気候は大陸性で、夏は暑く、冬は寒い。また地震が頻繁に発生している。年平均降水量は、国の南西部で75_、マザーリ・シャリフで213_、東部のカズニーで213_、サーラング峠の上方で1,150_である。主要都市は、首都カーブルの他、西部のヘラート、東部のジャラーラーバード、北部のマザーリシャリーフ、クンドゥズ、南部のカンダハール等である。

先史時代からイラン高原やメソポタミアの諸文化と早くからつながりがあり、また、インダス文明とも交流があった。紀元前10万年に旧石器文化、紀元前7,000年頃、新石器の文化があった。紀元前3,000年〜紀元前2,000年頃には、四大文明が起こり、農耕文化の発展を背景に都市文化が生まれつつあった。紀元前2,000年〜紀元前1,800年頃の青銅器時代の「ムンディガク遺跡」、「デー・モラシ・グンダイ遺跡」が見つかっている。また、バクトリア地方から出土した数体の石製女性像が見つかっている。

紀元前6世紀、イラン人が建てた「アケメネス朝ペルシャ帝国」に編入され、アレイヴァ(ヘラート)、アラコシア(カンダハール、ラシュカルガー、クエッタ)、バクトリア(バルフ)、サッタギディア(ガズニー)、ガンダーラ(カーブル、ジャラーラーバード、ペシャーワル)の地方名で呼ばれた。カンダハルの旧市「シャル・イ・コナ」の発掘によって、紀元前6世紀には、既にアフガニスタン南方の首邑になっていた。

紀元前4世紀、「アレクサンドロス大王」がこの地を征服し、「アレクサンドリアオクシアナ」と呼ばれる都市を建設。紀元前3世紀中頃、アフガニスタン北部からタジキスタン南部にかけてはギリシャ人の「グレコ・バクトリア王国」が支配した。

紀元前2世紀後半、遊牧民「月氏」が侵入しグレコ・バクトリア王国は滅ほし、「クシャーナ朝」を起こし、1世紀以降栄える。ギリシア文化は影響力を失い代わってインド文化や仏教の影響が強くなり、4世紀頃までバクト商人がシルクロード交易を掌握する。3世紀末、クシャーナ朝に代わり「サーサーン朝」が支配。5世紀前半、「エフタル」が起りアフガニスタン・パキスタンを支配。6世紀後半、南下してきた「突厥」による支配を受ける。

8世紀初頭、「イスラム教徒軍」が侵攻、土着の「アフリーグ朝」は滅亡しイスラム帝国「アッバース朝」の支配下へ入る。751年の戦いでイスラム商人がシルクロード交易を掌握したが、ゾロアスター教や仏教、ヒンズー教の影響は、この後も10世紀頃まで残存した。9世紀中頃、再び土着イラン人によるターヒル朝・サッファール朝・サーマーン朝が興り統治する。10世紀以降、テュルク系のガズナ王国、ホラズム王国による支配が続いた。

14世紀以降、モンゴル系の「チャガタイ・ハン国系諸王朝」、テュルク系の「ティムール朝」が支配。16世紀、ウズベク族の「シャイバーン朝」、イラン人による「サファヴィー朝」が支配したが、北インドの「スール朝」、「ムガル帝国」による部分的地域支配をうける。17世紀には、サファヴィー朝とムガル帝国の「カンダハール」奪還をめぐる戦いが繰り返される。

18世紀初め、パシュトゥン人「ギルザーイー部族」が反乱を起こし、カンダハールに「ホタキ朝」の樹立。サファヴィー朝の首都「ケルマーン」に侵攻し、サファヴィー朝を滅亡させる。1747年、パシュトゥン人「ドゥッラーニー部族」による「ドゥッラーニー朝」が成立し、ムガル帝国との「ムスリム同盟軍」が、ヒンドゥー教の「マラータ帝国」に攻め込み勝利し、領土を拡張した。

1823年、ドゥッラーニー朝が「シク教国」に敗北し、ペシャーワル一帯の領土を失い、カイバル峠を越えて撤退。ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、「バーラクザイ朝」が成立し、1834年、国名を「アフガニスタン首長国」とする。

1838年〜1842年の、第一次「アフガン戦争」でイギリスに勝利。1880年の第二次「アフガン戦争」で敗れイギリスの保護国となるが、1919年の第三次「アフガン戦争」で勝利し「アマーヌッラー・ハーン国王」がイギリスから独立。1926年、国名を「アフガニスタン王国」とする。

1973年、旧王族の「ムハンマド・ダーウード」がクーデターを起こし、国王を追放、共和制を宣言し大統領に就任。国名は「アフガニスタン共和国」。近代化と軍事近代化を目指しソ連に接近しイスラム主義者達を弾圧。1978年、アフガニスタン人民民主党主導による軍事クーデター「四月革命」が発生し、ムハンマド・ダーウード大統領一族が処刑され、人民民主党による社会主義国家「アフガニスタン民主共和国」となる。

これに対して全土で「ムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)」が蜂起、「アフガニスタン紛争 (1978〜1989年)」が始まり政情が不安定化する。1979年、首相が副首相アミーンの一派に殺害され、ソ連軍の軍事介入が開始。ソ連はムジャーヒディーンを抑えられないアミーンをKGBを使って暗殺、ソ連軍及政府軍とムジャーヒディーンの戦闘が激化する。

1982年、国連総会において外国軍の撤退を要求する国連決議が採択され1987年、国名を「アフガニスタン共和国」に戻す。ソ連軍の撤退と国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション設置が決定され、1989年、ソ連軍10万人の撤退完了。

1989〜2001年「アフガニスタン紛争」、「ムジャーヒディーン各派」は暫定国家元首を指名するが「ジャラーラーバードの戦い」でナジーブッラーが率いる人民民主党政府に敗北。1992年、ナジーブッラー政権も崩壊し、ムジャーヒディーンのイスラム協会主導による「アフガニスタン・イスラム国」が成立。

1993年、イスラム協会の指導評議会議長が大統領に就任。1994年、内戦が全土に広がり、「ターリバーン」がパキスタンの北西辺境州から勢力を拡大、1996年、カーブルを占領し「アフガニスタン・イスラム首長国」の成立を宣言。アフガニスタン・イスラム国政府とムジャーヒディーンの一部が反ターリバーンで一致し、北部同盟となる。

同年、米国の指示によりパキスタン政府が「ウサーマ・ビン=ラーディン」の国外追放を実行。ビン=ラーディンの率いる「アルカイーダ」がアフガニスタン国内に入り、ターリバーンと接近す。1997年、第一次「マザーリシャリーフの戦い」でターリバーンが敗北するも、1998年、第二次「マザーリシャリーフの戦い」でターリバーンが勝利し、アフガン全土の9割を掌握するが、イラン領事館員殺害事件が発生。

イランとターリバーン双方が国境付近に兵を集結、一触即発の危機を招いたが、ラフダル・ブラヒミ国連特使の仲介により危機が回避された。また、ケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件に伴うアルカイーダの引き渡し要求をターリバーンが拒否した為にアメリカとの関係が緊張化する。

1999年、ターリバーン支配地域に対する経済制裁を定めた国連安全保障理事会決議が採択され、2000年、ターリバーン支配地域に対する追加経済制裁を定めた決議が採択されるが、2001年以降、ターリバーンのバーミヤンの石仏爆破、北部同盟の司令官が自爆テロでの死亡、閉鎖中のアメリカ大使館のカーブル市民による襲撃等が起った後、2001年9月11日に「アメリカ同時多発テロ事件」が起きた。

2001年10月2日、NATOがアルカイーダを匿うターリバーン政権に対して自衛権の発動を宣言。10月7日、アメリカ軍が「不朽の自由作戦」の名の下で空爆を開始、イギリスも参加。北部同盟も地上における攻撃を開始。これより「アフガニスタン紛争」が開始される。11月13日、北部同盟は、無血入城でカーブルを奪還し、年末にターリバーン政権崩壊。

11月27日、空爆が続くなか、国連は新政権樹立に向けた会議をドイツのボン郊外で開催し、11月29日、行政府に相当する暫定行政機構の設立案について合意。12月5日、国連の調整で、議長にパシュトゥン人の「ハミード・カルザイ」を据え、暫定政権協定の調印が実現した。国際連合安全保障理事会決議にもとづき「国際治安支援部隊 (ISAF)」 創設、カーブルの治安維持にあたる。

また、国連安全保障理事会決議により、「国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)」がスタート。2001、カーブルで暫定政権発足の記念式典が挙行された。約3,000人が出席し、ラバニ大統領からカルザイ暫定行政機構議長に政権が委譲される形で執り行われ、カルザイが暫定政権の首相となった。

2002年、東京でアフガニスタン復興支援会議が開催された。約60各国と22の国際機関の代表が出席。これに先立ちNGO59団体による会議も開かれ各国が支援を発表し、支援総額は30億jを超えた。更に支援は、行政能力の向上や教育、保健衛生、インフラ、経済システム、農業及び地方開発、地雷撤去等の作業を実施し、定期的に復興運営会議をカーブルで開催する事等を決定した。

2011年7月15日、アメリカ軍のアフガニスタンからの撤退を開始したが、9月20日、ターリバーンとの和解交渉を担当する高等和平評議会の議長が自宅での自爆攻撃で死去。カルザイ大統領はターリバーンとの和平交渉打ち切りを指示。12月6日、首都カーブルや北部バルフ州の州都マザーリシャリーフ、南部カンダハル州等で、イスラム教シーア派の廟やその周辺で自爆・仕掛け爆弾による爆発があり、多数の死者や負傷者が出しており、政情は今だ不安定である。

アフガニスタンには多くの貴重な遺跡が残っており、ユネスコの世界文化遺産に登録された文化遺産が2件存在する。 ◆『ジャームのミナレットと考古遺跡群』: 2002年の登録。ゴール州、ハリー・ルード川とその支流ジャーム川の合流点の畔にあるミナレット(尖塔)。ゴール朝(グール朝)のスルターン、「ギヤースッディーン・ムハンマド(在位1163年〜1202年)」が築いたとされる世界第2の高さを持つミナレットである。 ◆『バーミヤーン渓谷の文化的景観と古代遺跡群』: アフガニスタンの首都カーブルの北西230`の山岳地帯に位置する「バーミヤン渓谷(バーミヤーン渓谷)」。2003年に登録されたユネスコの世界遺産。バーミヤーン渓谷には大仏と多くの壁画が残されていたが、紛争により破壊され続け、殊に2体の大仏は破壊されつつ持ちこたえ立ち続けていたが、2001年にターリバーンによって完全に破壊された。

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2013年07月31日 | 仕向地ミニ情報 | アジア一覧

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