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サウジアラビア (SAUDI ARABIA)

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サウジアラビア (SAUDI ARABIA) : 

公式国名、サウジアラビア王国(Kingdom of Saidi Arabia)。中東・西アジアのアラビア半島の大部分を占め、「サウード家」を国王に戴く絶対君主制国家で、アラビア語による国名の「アル=マムラカ・アル=アラビーヤ・アッ=スウーディーヤ」は「サウード家によるアラビアの王国」を意味する。面積、2,149,690平方`。中東地域においては最大級の面積を誇る。人口(2012年)、2,920万人。人口密度、12.84人/平方`。原語、アラビア語。世界一の原油埋蔵量を誇る国であり、石油(原油)をアメリカをはじめ世界中に多く輸出している。首都は「リヤド」

アラビア半島の8割を占め、紅海ペルシア湾に面する。北はクウェートイラクヨルダン、南はイエメンオマーンアラブ首長国連邦カタールと国境を接する。国土の大部分は砂漠で、北部にネフド砂漠、南部にルブアルハリ砂漠(広さ25万平方`)がある。砂漠と紅海の間には中央山地(北のヒジャーズ地方からトワイク山地)があり、西部で標高1,500b、東部で800bである。南部には最高地点であるサウダ山(標高約3,000b)がそびえる。

国内には13の州あるが、知事(アミール)は、すべて王族が勅任されている。主要都市としては、リヤド(リヤード、首都)ジッダ(ジェッダ)、メッカ(マッカ)、ダンマーム(ダンマン)、カフジ(ハフジ)、アル=フバル、マディーナ(メディナ)、ジーザーン(ジャーザーン)。その他、アル=ジュバイル-ロイヤルコミッション(Royal Commission for Jubail and Yanbu)管轄の石油工業団地都市「ヤンブー(ヤンブウ)、カティーフ」がある。

砂漠気候で夏は平均45℃、春と秋は29℃で、冬は稀に零下になる。昼夜の気温差が大きい。

宗教は、イスラム教(国教)。国民がイスラム教以外の宗教を信仰する事は禁じられており、サウジアラビア国籍の取得の際にもイスラム教への改宗が義務付けられている。西部にイスラム教の聖地であるメッカがある為、世界各地から巡礼者が訪れる事もあってイスラム世界においての影響力は最も大きい。

しかし、実際には国内に多数のシーア派は住んでおり、シーア派はイランと地理的に近い東部州に多く東部州の人口の42.5%を占めており、サウジ全土では6.4%になると推定される。また、イエメンに近い南部のアブハーなどもシーア派(イスマーイール派、ザイド派)が多いとみられる。

住民は純粋のアラブ人で、その多くが遊牧生活を営む。サウジ国民という意識の前に「どの部族の出身か」、「どの地方の出身か」、「どの宗派を信じるか」、「どの階級に属するか」で自らを認識している。これは、古来から続く無数の部族勢力が跋扈しており、部族社会が定住民だけで無く遊牧民から形成されている事、各地に点在する少数派宗教等も状況を難しくしている為で、サウード家による長年の中央集権化政策・部族解体政策にも関わらずサウジアラビア人という民族意識の形成には至っていない。

OPECの盟主的存在であり、経済は石油等の天然資源の採掘と輸出が主な外貨獲得源(石油が外貨収入の約90%を占めている)となっている他、これらで獲得した外貨を世界各国で投資運用している。しかし、製造業等は小規模なものしか存在せず、また巡礼者や業務渡航以外の一般観光客を受け入れていない事から、観光業による外貨獲得も非常に低い。この為、近年では政府主導でIT等を中心とした経済多角化を進めているが、依然として天然資源開発関連以外の分野では外国資本導入が進んでいない。2010年9月、英国のシンクタンクによると、リヤドは世界第69位の金融センターと評価されており、中東ではドバイ、カタール、バーレーンと比較するとまだ出遅れている。

南部では有史以来、高度な文明が栄えた。西暦622年、イスラム教の開祖「マホメット(ムハンマド)」メッカからメディナに移住。この遷都を「ヒジュラ」といい、この年を起源に「イスラム暦(ヒジュラ暦)」が成立した。マホメットは630年、出生地のメッカを征服、イスラムの聖地とした。661年「ウマイヤ朝」が成立し、16世紀に「オスマン・トルコ」が支配するまで群雄割拠した。

1744年に中央アラビアのナジュド地方に「第一次サウード王国」が登場している。この年、リヤドの近くにあるディルイーヤの支配者「ムハンマド・イブン=サウード」は宗教指導者「ムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブ」と盟約を結び、新たな国家体制をつくった。この同盟は、今日の「サウジアラビア王朝」の統治の基礎となっている。

続く150年間、サウード家はアラビア半島の支配を巡って「エジプト」や「オスマン帝国」そして他のアラブ部族ラシード家の「ジャバル・シャンマル王国」と争い興亡を繰り返した。

第三のそして現在のサウード国家は、1902年にクウェートから来た僅か22歳のサウジアラビアの初代国王「アブドゥルアズィーズ2世(イブン=サウード)」がサウード王家先祖伝来の本拠地リヤドをライバルのラシード家から奪回し、ナジュドで建国した「ナジュド及びハッサ王国」である。アブドゥルアズィーズは、メッカ、ジャーズと征服を続け、1927年1月29日にはほぼ全域を征服し、同年5月20日に結ばれた「ジッダ条約」によりイギリスはその領域の独立を認め、「ヒジャーズ・ナジュド王国」が成立した。1932年に主要地域のハサー、カティーフ、ナジュドそしてヒジャーズが統一して「サウジアラビア王国」が成立した。

アブドゥルアズィーズの政治的成功も経済までには及ばず、1933年に「サウジアラムコ」が設立され1938年3月にダーラン(ザフラーン)で「ダンマン油田」「ダンマン油田」が発見されるまで国は経済的に貧しい状態だった。油田開発は第二次世界大戦の為に中断したものの、1946年には開発が本格的に始まり、1949年に採油活動が全面操業した。石油はサウジアラビアに経済的繁栄をもたらしただけでなく、国際社会における大きな影響力も与えた。

アブドゥルアズィーズは、1953年に崩御し、次男「サウード」が2代目に即位したものの、1960年代ドの経済的失政により王国は危機に陥り、またエジプトのナーセル大統領からの地域的な難問への対応にも失敗し、1964年にサウードは退位させられ、代わって異母弟の3代目「ファイサル国王」が即位し、近代国家の基礎を築いた。

1973年の「第4次中東戦争」に際してサウジアラビアはいわゆる石油戦略を用い、石油危機を引き起こした。この後、サウジアラビアを初めとする「石油輸出国機構 (OPEC) 」が大きな国際的影響力を発揮する様になる。

1975年に家族間抗争が一因でファイサル国王が甥のファイサル・ビン・ムサーイド王子により暗殺さ、その後、やはり異母弟の「ハーリド」が4代目の王位を継いだ。1979年にイラン革命に影響を受けたイスラム過激主義者による「アル=ハラム・モスク占拠事件」が発生。武力で鎮圧したものの、以後、イスラム過激派に配慮した政策を行うことになった。

1982年、ハーリドが崩御して異母弟の「ファハド皇太子」が第5代国王に即位し、1990年に隣国のイラクに侵略され湾岸危機が起こると、国土防衛の為に米軍の駐留を許可した。聖地メッカのあるサウジアラビアに異教徒の軍隊が駐留することに敬虔なイスラム教徒達は反発し、後に同国人の「ウサーマ・ビン=ラーディン」反米テロを組織する原因ともなった。

2005年にファハドが崩御し、彼の異母弟の「アブドゥッラー2世」が6代目として即位した。

「サウジアラビア」の風景はこちら

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2015年04月18日 | 仕向地ミニ情報 | アジア一覧

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