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モンゴル・モンゴリア (MONGOLIA)

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モンゴル・モンゴリア (MONGOLIA) : 

ユーラシア大陸の中央部にある国。公式名称、モンゴル国(Mongolia)。旧名、モンゴル人民共和国(Mongolian People's Republic)。1924年、独立。面積、156.5万平方`(日本の約4.15倍)。住民はモンゴル(蒙古)人。人口(2008年)、2,871,000人。人口密度、2人/平方`。原語はモンゴル語。首都、ウランバートル市の他、日本の県にあたるアイマグが21設置されており、県には郡にあたる「ソム」が347、更にその下に村にあたる1,681のバグが属する。各ソムの人口は3,000人程で、バグは50〜100家族ほどで構成されている。

世界的に見ても都市への人口集中が高い国である。「ゴビ砂漠」とその以北の「モンゴル高原」の大部分を占め、北はロシア連邦、南は中国の内モンゴル自治区に接する。東アジアの中心に位置し西には標高4,300bの「アルタイ山脈」と標高3,500bの「ハンガイ山脈」がそびえ、東には1,000b〜1,500bの高原が広がり北東には針葉樹林が広がる。あとは高山砂漠とステップの植生が南の海抜平均1,000bのゴビ砂漠まで続いている。国土の4/5を占める草原ステップは牧草地に使用されている。

重要な河川は「*バイカル湖」に注ぐ「セレンゲ川」と太平洋にそそぐ「ヘルレン川」がある。畜産業が主で、かつての遊牧民は現在固定家屋に定住している。主に畜産業と鉱業が中心でモリブデンは世界屈指の埋蔵量を持ち現在、モンゴル政府は金鉱や銅鉱、モリブデン、石炭等の開発を推進している。近年、豊富な天然資源等を目的に外国からの投資が活発化している。しかし、政治的安定性が未だに構築されておらず、政権が変わる度に、その政策方針が二転三転する事で、外国の投資家に警戒感を持たせている。2004年の統計による畜産は、ヒツジ1,168.6万頭、ヤギ1,223.8万頭、ウシ184.2万頭、ウマ200.5万頭、ラクダ25.7万頭を飼育し、牧草地の広さは国土の約80%で、そのほとんどが移動牧畜、つまり遊牧で行われている。

歴史的に中国との関係は悪く、今でも一部の民衆には反中感情がある。日本とは友好的関係が維持され日本より多額のODAが供与されており、日本の中古車も人気である。戦争でも手を組んだり、鉄道を含むインフラ整備に貢献したロシア(旧ソ連)とは友好関係で、中ソ対立ではソ連側についた。ロシアと社会主義文化の影響がある為にウランバートルの高層アパート、都市インフラのシステムも原型はロシア式であり今でもキリル文字を使用している。

モンゴル政府は、自由市場経済、歳出の凍結、価格管理をゆるめ、国内国外貿易の自由化を進めている。モンゴルの厳しい自然、散在している人口、広大だが生産的でない土地は、経済発展を束縛し、伝統的に農業と家畜の飼育が主な産業である。石炭、銅、モリブデン、スズ、タングステン、金の採掘と加工は、工業生産の大きな部分を占め、政府は外国の援助を懇願し、1997年、2億5千万jの援助を得た。経済成長は、一連の自然災害と銅とカシミアの世界的な価格の下落により1996年に失速したが、1987年には持ち直した。

モンゴル人の主な宗教はチベット仏教で、歴史的にチベットとの関わりが深い。またシャーマニズム信仰も根深い。どちらも社会主義時代は抑圧されていたが、民主化以降復活を遂げている。多くの国民は、人種的には日本人と同じモンゴロイドで、いくつかの遺伝形質の傾向が一致し、モンゴル語と日本語が文法的に比較的似通っている事から、日本人のルーツに近いという説もある。旧石器時代の氷河期に当時陸で繋がっていた間宮海峡や宗谷海峡を通ってモンゴル人の祖先が日本列島にも入ってきたという説も有力である。

西部のバヤンウルギー県はカザフ人(イスラム教徒)が人口の大半を占め、学校教育もカザフ語とモンゴル語で行われる。モンゴル国憲法は、モンゴル語を唯一の公用語と定めているが、公文書はモンゴル語で作成されるものの、実際には同県の少数者であるモンゴル人の多くもカザフ語を話し、カザフ語が議会を含むあらゆる場面での共通語となっている。

モンゴル民族のアイデンティティーの基礎が出来上がったのはチンギス・ハーンのモンゴル帝国時代と考えられる。20世紀に入ると清朝は北方の自国領の人口密度を高くする為にロシア側からの侵略を防ぐ政策を実施し、それまでの辺境への漢人入植制限を廃止した。内モンゴルでは遊牧地が漢人により次第に耕地に変えられて行った為、モンゴル民族内で反漢・独立感情が高まり、反漢暴動が頻発した。中には貴族のトクトホの様に「馬賊」となり漢人襲撃を繰り返す者もいた。一方で知識人ハイシャンらは漢人商人の活動に反発を覚えてはいたが、未だ危機感の薄かった外モンゴル地域と連携して独立を達成する事を画策した。外モンゴル貴族のツェレンチミドらと協力し外モンゴル諸侯に独立の為の説得工作を行った。

1911年に辛亥革命が起こると、既にハイシャンらの説得工作が功を奏し、ロシアに独立の為の財政援助を求めていた外モンゴルの多くの地域の王侯達は清からの独立を宣言した。モンゴルにおけるチベット仏教界で最高権威かつ民族全体のシンボルとして君臨していた化身ラマ(活仏)をモンゴル国の君主(ハーン)として推戴し、政権を樹立した。1913年には、チベットとの間で相互承認条約を締結した。統治機構は清朝の整備したものをほぼそのまま利用する事で、スムーズな政府の設置ができた。

ただ、内モンゴルとの連携については、内モンゴル解放軍を派遣し、一時的には内蒙古の大部分を制圧したが、モンゴルの後ろ盾として経済的、軍事的支援を行っていた帝政ロシアが中国への配慮から、内蒙古からの撤退を要求、撤収を余儀なくされた。

1915年、キャフタ条約で中国の宗主権下での外モンゴル「自治」のみが、清の後を引き継いだ中華民国とロシアによって承認されるが、内モンゴルについてはこの地への進出をうかがっていた日本に配慮して現状維持とされた。また、内モンゴルでも外モンゴルの独立に呼応する動きが見られたが、内モンゴルのかなりの地域が漢人地域になっており中国が手放そうとしなかった事、モンゴル人の間で統一行動が取れなかった事等から内外モンゴルとの合併には至らず、以後別々の道を歩むことになる。

1917年、ロシア革命が勃発して力の空白が生じると中国は外モンゴルでの勢力回復に乗り出し、1919年には自治を撤廃するが、1920年10月、「*赤軍」との内戦で不利な状況に追い込まれていたロマン・ウンゲルン率いる白軍が体制の建て直しの為にモンゴルへ侵入して中国軍を駆逐したが、ウンゲルンの残虐な行動に人心が離反、民族主義者、社会主義者らは「モンゴル人民党(後のモンゴル人民革命党)」を結成、ソビエトの援助を求めた。これに応じた赤軍や極東共和国軍はモンゴルに介入し、7月にジェプツンタンパ8世を君主として戴いたままモンゴル人民政府を樹立した。

こうして立憲君主制国家としてスタートする事になった新生モンゴルだが、1924年にジェプツンタンパ8世の死去を契機に人民共和国へと政体を変更、モンゴル人民共和国(社会主義国)が成立した。なお、これら一連の動きや内モンゴルとの連帯において、リンチノらブリヤート・モンゴル人の活躍や理論的支えが大きく貢献していた。

モンゴル人民共和国は、1924年〜1928年ダンバドルジ政権の下、狭量な社会主義政策にとらわれない開明的諸策を打ち出したが、コミンテルンの指導、ソ連からの圧力により、中ソ対立以後も徹底した親ソ・社会主義路線をとる事になる。1929年〜1932年には厳しい宗教弾圧と遊牧の強制農耕化、機械化、集団化など急進的な社会主義政策をとるが、各地で国民の約45%が参加した暴動が発生、多くのチベット仏教僧、富裕遊牧民が暴動の指導者として虐殺された。その後は急進的な政策はやや緩和され、教育や産業の充実が図られたたものの、反革命のかどで粛清された国民はかなりの数に上った。

モンゴルのスターリンと呼ばれた軍人スフバートルと共に革命の中心メンバーの一人で、1930年代より指導者であった「チョイバルサン」は、モンゴル語のキリル文字使用を決め、革命前は0.7%だった識字率が60年代には文盲の絶滅を宣言。チョイバルサンは1952年に死去するまで独裁政治を行った。

後継者「ツェデンバル」は、西部の少数民族の出身ながら粛清による極端な人材不足に乗じて一気にトップに昇りつめ、ロシア人の夫人と共に数十年間に渡ってモンゴル人民共和国を支配したが、1984年に健康上の理由により書記長を事実上解任され、テクノクラート出身の実務派である「バトムンフ」が書記長に選ばれた。バトムンフはモンゴルのゴルバチョフと呼ばれ、ソ連のペレストロイカに呼応した体制内改革を行った。

外国との戦争は、第二次大戦中の1939年に現在の中国領である「ノモンハン(モンゴル語ではハルヒンゴル/ハルハ河)」で日本軍・満州国軍とモンゴル人民軍・ソ連赤軍連合軍と軍事衝突した「ハルハ河戦争(ノモンハン事件)」のみで、それ以降は殆ど諸外国とは戦争は行ってないが中国とは中ソ対立でモンゴルがソ連を支持した事による政治的対立があった。

1989年末、ソ連・東欧情勢に触発されモンゴルでも反官僚主義・民主化運動が起き、年明けの1990年春には、初めて日本を公式訪問したドゥマーギーン・ソドノム閣僚会議議長(首相)の決断により、一党独裁を放棄した。1992年にはモンゴル人民共和国からモンゴル国へと改称、新憲法を制定し、社会主義を完全に放棄した。但し、この民主化プロセスにおいては、国際援助機関の関与により当初の趣旨が曲げられ、アメリカ型の極端な資本主義の導入につながったとの見解もある。

現在では、貧富の差の拡大が国家的問題となっている。また社会主義時代から官僚の汚職体質は民主化以後むしろ悪化しているとされる。ソ連崩壊による経済的混乱及び寒波により、都市部には数千人規模のマンホールチルドレンがいる。冬は気温が-40℃を下回ることもあるウランバートル等では路上で生活する事が出来ず、孤児はマンホールから地下に潜って、生き延びているという。

モンゴルには、ユネスコに登録された世界遺産が3件ある。

◎「自然遺産」としては、 ◆『オルホン渓谷の文化的景観』: モンゴル中央部のオルホン川両岸に広がっている渓谷。首都ウランバートルの西方約360`に在る。その渓谷の文化的景観は、2,000年以上に渡って培われてきた遊牧民の伝統を例証するものとして、2004年にユネスコの世界遺産に登録された。 ◆『モンゴル=アルタイ山脈の岩絵群』: 2011年に登録されている。

◎「文化遺産」として、 ◆『ウヴス・ヌール盆地』: 2003年に登録。モンゴル国最大の湖。日本ではウヴス湖とも表記される。海抜753b、面積3,350平方`。その北東部は、ロシア連邦のトゥヴァ共和国に含まれる。湖岸の最大の集落は、オブス県の県庁所在地オラーンゴムである。この塩分の濃い浅い湖は、かつて数千年前にこの一帯にも海が広がっていたときの名残である。

「モンゴル」風景はこちら

※≪『バイカル湖』:  ロシア南東部のシベリア連邦管区のブリヤート共和国とイルクーツク州ザバイカリエ地方に挟まれた三日月型の湖。面積、31,722 平方`。南北の長さ636 `、最大幅79`、周囲2,100 `。最大水深1,642 b、平均水深744.4b。貯水量は、23,615.39立方`。「シベリアの真珠」とも、ガラパゴス諸島と並ぶ「生物進化の博物館」とも称される。

世界最大の貯水量をほこり、世界中の淡水の17〜20%がここにあるとされる。水質も世界最高の透明度を誇る湖であり、1996年に世界(自然)遺産に登録された。

セレンガ川(セレンゲ川)バルグジン川上アンガラ川など336本の河川が流入するが、流出する河川は南西端に近いアンガラ川のみである。その為、水量が常に豊富である。湖には最大のオリホン島(面積730平方`、奄美大島に匹敵)を初め22の島々がある。

バイカル湖は観光業も盛んである。リストビャンカを観光の足場に、遊覧船や冬でもホバークラフトで湖上を周遊できる。近郊には博物館タリツィがあり、古民家や少数民族の家屋など歴史的建築を見学できる。バイカル湖南端に位置するスリュジャンカ駅からバイカル湖岸に沿って走るバイカル湖岸鉄道は観光路線としても利用されている。≫

※≪『赤衛軍(ラボーチェ・クリスチヤーンスカヤ・クラースナヤ・アールミヤ)』: 略称、労農赤軍。1917年より始まったロシア内戦の最中に、ボリシェビキ党(レーニン)指導のもと組織された労働者の武装集団「労働者・農民赤軍」。1918〜1946年にかけてロシアおよびソビエト連邦に存在した軍隊「赤軍」ひいてはソ連軍の原型。1937年に、海軍が赤軍から独立した後はソ連の地上軍(陸軍)を指す呼称となった≫

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2015年01月27日 | 仕向地ミニ情報 | アジア一覧

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