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東ティモール(EAST TIMOR)

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「パンテ・マカッサル地域」:

東チモール=ティモール(EAST TIMOR):

正式名称は、「東ティモール民主共和国(テトゥン語名、Republika Demokratika Timor Lorosa'e・ポルトガル語名、República Democrática de Timor-Leste」。東南アジア地域に位置する共和制国家。面積、15,007平方`。人口(2008年)、1,133,000人。人口密度、68人/平方`。1998年の人口推計が、857,000人であったので10年間に30%以上増加したことになる。通貨は、アメリカ合衆国ドル。首都は、「ディリ」

住民は、メラネシア人が大部分である。その他華僑(客家)、印僑(インド系移民)、ハーフカスト(ポルトガル人とメラネシア人の混血)、ごく少数のカーボベルデ(北アフリカ西沖合いのマカロネシア人)等アフリカ系の移民等が存在する。言語は、テトゥン語とポルトガル語が公用語。マカサエ語やファタルク語などのパプア諸語(トランスニューギニア語族)とテトゥン語やマンバイ語等も話されている。 その他、インドネシア統治期に教育を受けた30〜40歳代を中心にインドネシア語が使われている。宗教は、キリスト教が99.1%、イスラム教0.7%、その他ヒンドゥー教、仏教、アニミズムなど。アジアではフィリピンと並びキリスト教信仰が盛んな国である。

旧インドネシア領で、1999年8月30日、国連主導の住民投票により2002年5月20日独立(国際法上はポルトガルより独立)した21世紀最初の独立国である。ポルトガル語諸国共同体加盟国である。

東ティモールは東南アジアの小スンダ列島東端にある島、ティモール島の東部の約半分とティモール島西部の飛地オエクシを中心とするパンテ・マカッサル地域、及びアタウロ島ジャコ島で構成されている国家。南方には、ティモール海を挟んでオーストラリアがあり、それ以外は西ティモールを含むインドネシア領東ヌサ・トゥンガラ州である。

環太平洋火山帯(環太平洋造山帯)の一部で小スンダ列島に属し、全土の約6割は山岳地帯となっている。多数の動植物固有種が存在し、北部海岸にはサンゴ礁が発達する。最高峰は2,963bのラメラウ山(タタマイラウ山)。高温多湿の熱帯性気候下だが、乾季と雨季の区別がある。雨季は、12〜3月の北東季節風の時期。

2013年のGDPは、インドネシアの1.5倍程で、東南アジアではタイに次ぐ水準であるが、国際連合による基準に基づき、後発開発途上国に分類されている。農業が主要産業で、国民の70%が農民で伝統的な農法により米やトウモロコシを栽培している。輸出用にコーヒーやコプラも栽培される。

石油は、南方のティモール海海底油田より産出されている。隣国オーストラリアとの境界線確定が課題だが、東ティモール側はインドネシア政府が結んだ境界線の見直しを求め、交渉は難航している。しかし、確定とは別に両国共同石油開発エリア(JPDA)を定め、収入の90%を東ティモールに、10%をオーストラリアに渡す事となった。2007年からは原油採掘に伴う税収やロイヤルティー収入が計上され、その収入を集約する為に東ティモール政府が設立した「石油基金」を利用した国家予算が計上できるようになっている。最初の事業はグレーターサンライズ・ガス田開発である。また、金と銀の鉱床が発見されている。

2009年3月には「シャナナ・グスマン」首相が日本を訪問し、日本の麻生太郎首相との間で「日本と東ティモールとの間の共同プレスステートメント」を発表した。その中で日本は無償資金援助を東ティモールに対して行い、東ティモールの円滑なASEAN加盟を支援する事を表明した。

現在この地に住んでいる種族は、石器の発掘され旧石器時代すでに人類が居住して居た事が証明され、ティモールの原始人は外部から移住してきたと推測される。紀元前2000年頃パプア系語族が島の東部へ移住し、ずっと時代が下って紀元10世紀頃オーストロネシア語族が流入してきた、と伝えられている。

更に紀元前3000年頃と同2000年頃の二度に渡って、インド=マレー系エスニックグループが移住してきたとの説もある。現在のフィリピンを含むセレベス、ボルネオ、マルク諸島などの原住民の生活形態と文化的特長とが類似していることから南東マレー原人、ネグリト人、ドラビダ人およびメラネシア人の異種混合説が強い。

ヨーロッパの侵略以前、ティモールの原住民は文字を持たないが鉄器を使用し農業を行い、選挙による世襲君主政、顕著な奇妙な図柄の芸術を持ち農業と牧歌的な文化が有るという記録から、外部の文明を知っており、政治的社会背景が有ったと想われている。

ポルトガルオランダの到着のかなり以前、ティモールは政治上、東部のジャワ、セレベスを中心とする商用圏の一部をなしていた。また、貿易によって中国インドにリンクし、明朝で1436年に出版された書物には、ティモールの商業的価値が際立って評価され、「山々が白檀(ビャクダン)の木に一面覆われており、その産出以外何も無い地域」とある。

この島を最初に訪れたポルトガル人「ドアルテ・バルボサ」の1518年の記録に「白檀(ビャクダン)が豊富にあり、インドとペルシャのイスラム教徒は大きな地位を持っている」とある。オランダの行政官の記録には、「ポルトガルの主たる貿易製品はビャクダンで、他に蜂蜜、ろう(ワックス)、および奴隷を輸出している」とある。

ティモールの島は16世紀にポルトガルによって植民地化された。その後オランダが進出し、一時はポルトガルがこれを撃退したが、1859年に西ティモールをオランダ領として割譲し、ティモール島は東西に分割された。1904年にポルトガル=オランダ条約で国境を直線的分断し、1913年または1914年に確定した。

1911年から翌年にかけて収奪の厳しさに耐えかねてリウライ(マヌファヒ小国王)のドン・ドンボアベントゥラが反乱を起こした。戦死者3,424人、負傷者12,567人を出した。更に、1959年にピケケ県知事誘拐・蜂起事件が亡命インドネシア人と東ティモール人らによって引き起こされた。150人の死者が出たとの説もある。

ポルトガルが中立を守った第二次世界大戦時には、当初はオランダとオーストラリアの軍が保護占領し、「ティモール島の戦い」の後オランダ領東インド地域と合わせて日本軍が占領したが、日本の敗戦によりオーストラリア軍の進駐を経てポルトガル総督府の支配が復活し、1949年にインドネシアの一部として西ティモールの独立が確定した後もポルトガルによる支配が継続した。これに対し、人口の中で圧倒的多数を占める地元住民は独立志向を強めたが、アントニオ・サラザール首相等の「エスタド・ノヴォ体制」により抑圧された。

1974年、「東ティモール独立革命戦線(FRETILIN)」が設立され、翌年独立を宣言したが、インドネシア軍が度重なる侵略を行い、1976年インドネシアに併合された。インドネシア占領下で死亡した東ティモール人は20万人にのぼると言われている。

その後も国民の独立意識は強く、1999年に独立騒動となり、オーストラリアを中心とした国連軍がインドネシア軍の破壊行動を沈静させた。国連は「東ティモール・ミッション」を派遣し、その監督下で行われた「独立に関する住民投票」で、インドネシアの「特別自治権」提案が拒否され、独立が事実上決定した。

これに反発するインドネシアはインドネシア併合維持派の武装勢力(民兵)を使って破壊と虐殺を行った為、「オーストラリア軍・パプアニューギニア軍」を主力とする多国籍軍「東ティモール国際軍」が派遣され「東ティモール紛争」となり、その結果、暴力行為は収拾したが、多くの難民が西ティモールに逃れ、あるいは強制的に連れ去られた。

同年「国連東チモール暫定統治機構(UNTAET)」による暫定統治のもと、2001年に新憲法を制定する制憲議会の議員選挙により88人が、東ティモール初の国会議員に選ばれた。憲法が制定され、2002年4月の大統領選挙で、大統領には「グスマン」、首相には「マリ・アルカティリ」が選出され、同年5月20日新生東ティモールが誕生した。独立式典が行われ、国連は「東ティモール支援団」を設立し国造りの支援を行い、日本も自衛隊「国連平和維持活動(PKO)」として派遣し、支援活動を行った。

2006年4月に西部出身の軍人約600人が、ストライキを起こし、政府は参加者全員を解雇。これを不服とした参加者側が5月下旬に蜂起、国軍との間で戦闘が勃発したが、警察や国軍の一部がスト参加者に同調して反旗を翻し、警察署を襲撃して死者が出た為、怯えた警察官が職務放棄。また若者を中心に暴徒化してディリは混乱した。政府はオーストラリア・マレーシアニュージーランドポルトガルに治安維持軍の派遣を要請し、一早くオーストラリア軍が展開し、その後4ヶ国による治安維持が行われた。

オーストラリア軍は反乱軍を指揮する少佐と接触し、少佐の武装解除命令によって6月半ばに蜂起は終結したが、暴徒の方は反政府デモとなり、ディリは半ば戦場と化し、住民のほとんどは難民となって郊外へ脱出した。治安維持軍によって年内に暴動は鎮圧されたが、オーストラリア政府の支援による警察の再建など、治安の回復には時間がかかると思われる。

2007年8月8日、グスマン連立政権発足の前後より、与党フレティリンの熱狂的な支持者が暴徒化し、首都ディリなどで民家などへの放火や投石が多発した。8月10日には、東部のバウカウ県で、国連平和維持活動に携わる国連警察の車列が、発砲を受け車両1台が燃やされた。ビケケ県では子供1人が暴動に巻き込まれ死亡。数日の間に100名以上の逮捕者が出たが、8月12日には、国連警察、東ティモール警察、多国籍治安部隊(主に豪軍)、東ティモール国軍により暴動は沈静化した。

2008年2月11日、ラモス=オルタ大統領やグスマン首相が2006年の国軍反乱以降に反政府勢力となったアルフレド・レイナド少佐が指揮する武装集団に襲撃された。この際にレイナドは死亡し、ラモス=オルタは重傷を負ったがオーストラリアの病院での治療により一命を取り留めた。ラモス=オルタ大統領は4月17日に職務に復帰し、襲撃事件に伴う非常事態令も5月8日に解除された。

国連によるUNMITは2009年も延長されたが、同年3月には国家警察への権限移譲が開始され、混乱は徐々に収束しつつある。

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2017年03月05日 | 仕向地ミニ情報 | アジア一覧

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