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ボローニャ = ボロニア(BOLOGNA)

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ボローニャ県:

ボローニャ(コムーネ)市:

ボローニャ = ボロニア(BOLOGNA) : 

イタリア、エミリア・ロマーニャ州の県。同州の州都であり、ボローニャ県の県都でもある。面積、140.73 平方`。人口(2012年)、371,151人、人口密度、2,637.3 人/平方`。海抜54b。ロンバルディア平原との境にある商工業都市で交通の要所である。

イタリア北部、アペニーノ山脈の北側の麓、山脈とポー川の間にあるポー川谷、山と平野の境に位置し、フィレンツェから北へ81`、ヴェネツィアから南西へ130`、アンコーナから北西へ200`、ミラノから南東へ201`、首都ローマから西北西へ306`の距離にある。

1088年に創立したヨーロッパ最古の大学「ボローニャ大学」を有する文化の中心都市で、科学、芸術、文学の分野で数多くの著名人がこの地で生まれている。イタリア有数の発展都市でイタリア国内での生活の質の高さは常に10位以内に入る。これは強力な工業都市としての伝統と、都市の位置によるものである。

国で最も重要な高速道と鉄道が交差する地点にあり、高度に発展した社会サービスが広範囲に行われている。街のシンボルは、中世に建てられた「ポルティコ」と呼ばれる柱廊のアーケードで、雨の日も快適に歩ける。

時間を忘れてしまいそうな歴史の町。この歴史の町は、エトルリア人の時代(紀元前6世紀)には、すでに都市として存在していた。中世様式を残す中心地の道は、中心から城壁を横切って、郊外へと放射状にのびている。

観光スポットは、街の中心地にある「マッジョーレ広場」周辺。広場には16世紀に作られた「ネプチューンの噴水」が水をたたえていて、その隣の「市庁舎」は芸術の宝庫。ニコロ・デッラルのカ作「聖母と幼子キリスト像」がある。

13・14世紀のゴシック様式の「サン・ドメニコ教会」「サン・フランチャスコ教会」「サン・ジャコモ・マッジョーレ教会」「サンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会」、「サン・ペトロニオ大聖堂、(今も未完成のままだが初期ルネッサンスの彫刻が素晴らしい)」、「サン・ピエトロ聖堂」「サント・ステファノ教会」「マドンナ・ディ・サン・ルカ教会」「サン・ミケーレ・イン・ボスコ教会」「サン・パオロ教会」、同じ時期に造られた建物として、「ポデスタ邸」「エンツォ王の宮殿」、マジョーレ広場の中心的建造物である「パラッツォ・コムナーレ(アックールジオ)」、等がある。

原型のローマ時代の城壁は、一部が今も見られる高さのある中世の城壁(いまだ健在)によって取って代わられ、最後の城壁は13世紀に建てられ、12あったうちの9つの門はが現存する。20以上ある中世の防衛用塔は、一部が危険な状態に傾いており、200年以上たった残りの塔は今世紀に再建された物である。

城壁の外は、緑の田園風景と丘が広がり、モンギドロモンツーノ、コルノ・アッレ・スカーレ(標高約1,945bにもおよぶ)等の高地に位置する町も存在する。ボローニャの町から一番近い緑地は、ボローニャ南東の丘「トッレンティ・サヴェーナ」、ゼーナに広がる「ジェッシ公園」がある。

また、スパゲティの「ボロネーゼ(ミートソース)」の名は、ボローニャの地名がもとで、イタリア屈指の郷土料理でも有名。

紀元前6世紀にはエトルリア人の集落があり、紀元前189年にローマ人の植民市となり、902年にマジャール人の襲撃を受けて破壊された。12〜14世紀にかけては自治都市として教皇派に属し、16世紀には教皇領に組み入れられた。中世末期からフィレンツェと対抗した学芸・宗教の中心地で、最初の大学は11世紀に建設され、最盛期の13世紀には学生の数は1万人に達している。この中にルネサンス文学の先駆といわれる「ダンテ」や「ベトラルカ」もいた。

「タッデオ・ペポリ(治世: 1337〜1347年)」による幸福な支配の後、ミラノの「ヴィスコンティ家」のものになり、1360年に教皇領へと返還された。その後、1377年のような共和制政権の交替が見られた。15世紀半ばは「サンテ・ベンティヴォーリョ(治世: 1445〜1462年)」、「ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリョ(治世: 1462〜1506年)」が支配した。この時代、著名な建築家や画家が、ボローニャを真の芸術都市にした繁栄の時代である。また、秀でた女性であればどんな専門的職業にも就けたイタリア唯一の都市だった。ジョヴァンニ2世の治世が1506年で終わると、ローマ教皇ユリウス2世軍はボローニャを包囲し、芸術作品を略奪した。この頃から、再び教皇領の一部になり、枢機卿に支配された。

16世紀終わりにペストが大流行し72,000人の人口が59,000人に減少し、1630年には4万7000人になったが、市の繁栄は続いた。その後人口は回復し、6万人から65,000人で固定された。1564年、大学の所在地であるアルキジンナシオに沿ってネットゥーノ広場とバンキ広場が建設された。教皇領時代の支配は多くの教会やその他の宗教施設が建設され、古いものが修繕された。市にはイタリア最多の96ヶ所の修道院があった。

「ナポレオン・ボナパルト」が台頭すると、「チスパダーナ共和国」の首都となり、続く「チサルピナ共和国」と「イタリア王国」時代には、ミラノに次ぐ第2の都市となった。ナポレオン没落後、ボローニャでは教皇庁支配が復活したが、1831年と1849年には、1860年まで市を支配したオーストリア帝国の駐留兵が一時的に追放されるほどの反乱が起こった。

1857年に教皇「ピウス9世」はボローニャを訪問したが、市は1859年に「サルデーニャ王国」への併合に賛成し、イタリア統一運動に合流した。新たな政治状況の下、市はその文化的重要性を高め、商業、産業、通信の重要拠点となっていった。人口は再び増え始め、20世紀初頭には新たに増えた人口に対処する為に、古い市壁が一部を残して破壊された。

第二次世界大戦中はドイツ軍の重要な輸送拠点だった。1945年4月21日のアメリカ陸軍第34歩兵師団によるボローニャ攻略は、ポー川谷を開放し、ドイツ軍の北イタリア防衛線の崩壊につながった。大戦後は東西冷戦の中、イタリア共産党を中心とした革新政党が市政を握る事となる。その結果革新政党が市の財政状況を無視し、バスの時間限定無料化などの様々な「革新的」な施策を行う舞台とした反面、右派と左派の思惑が衝突する舞台となってしまう悲劇にも見舞われた。

1980年8月2日に、強力な爆弾がボローニャ中央駅で爆発し、86人の死者を出した「ボローニャ駅爆破テロ事件」が発生した。そのわずか2ヶ月前には、ボローニャ発のイタビア航空870便が、爆破される事件が起きた。冷戦崩壊後にはこの様な対立は収まったものの、現在も革新政党が比較的高い人気を保ち続け、今も「ウラジミール・レーニン大通り」など、革新政党全盛期の名残が市内の至る所にその痕跡をとどめている。

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2014年03月25日 | 仕向地ミニ情報 | ヨーロッパ一覧

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