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ウクライナ = ユークレイン (UKRAINE =Україна)

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ウクライナ = ユークレイン (UKRAINE =Україна) :

公式国名、ウクライナ(「Ukraine」ユークレイン)。ヨーロッパ東部の国。面積、603,500平方`(日本の1.6倍)。人口は、49,153,027人(2000年)、45,708,000人(2008年)、45,430,000人(2012年)と減少傾向にある。人口密度は、79人/平方`。言語、ウクライナ語(公用語)、ロシア語。宗教、ウクライナ正教、ウクライナ・カトリック、プロテスタント、ユダヤ教。首相は、キエフ。その他、ミコラ・アザロフ、オデッサハルキウドニプロペトローウシクイリチェフスクリヴィウ等の主要都市がある。

人種、主要民族はウクライナ人で、全人口の約80%で、ロシア人は約20%を占める。他に少数民族としてクリミア・タタール人モルドヴァ人ブルガリア人ハンガリー人ルーマニア人ユダヤ人がいる。高麗人も約1万人ほどいる。国内最大の少数民族であるロシア人の割合が高い州は、ロシアが実効支配しているクリミア自治共和国とセヴァストポリを除くとルハーンシク州39.2%、ドネツィク州38.2%、ハルキウ州25.6%、ザポリージャ州24.7%、オデッサ州20.7%、ドニプロペトロウシク州17.6%の順となっており、東部以外ではキエフ市13.1%が高くなっている。

東にロシア連邦、西にハンガリーポーランドスロバキアルーマニアモルドバ、北にベラルーシ、南に黒海を挟みトルコが位置している。

「黒海」の北に広がる平原の国。中央部は「ドニエプル川」が貫流する大平原で肥沃な黒土地帯である。東部はドネツ丘陵、西部は「カルパティア山脈」へ続く高地があり、南では「クリミア半島」黒海に突きだしている。

気候は、全般に穏やかな大陸性気候。大西洋の影響を受け雨量が多く、土壌が肥沃なため植物が豊かである。南部は温暖で特にクリミア半島リゾート地として名高い。北上するにつれて気温差が大きくなり冬の寒さが厳しくなる。

16世紀以来「ヨーロッパの穀倉」地帯として知られ、「ロシアの穀倉地帯」と呼ばれる大農業国である。肥沃な黒土地帯で、小麦、ライ麦、テンサイ、ジャガイモなどを生産し、周辺国へ供給してきた。19世紀に農業が発展し、小麦の世界的な産地となる。以後、産業の中心地帯として大きく発展している。天然資源に恵まれ、鉄鉱石や石炭など資源立地指向の鉄鋼業を中心として重化学工業が発達している。また、ドニエプル川と黒海を利用した海運も盛んである。

歴史的・文化的には中央・東ヨーロッパの国々との関係が深い。経済は、IMFの統計によると、2011年のウクライナのGDPは1,649億jと推計されており、日本の福岡県よりやや小さい経済規模である。2011年の一人当たりGDPは3,621jであり、世界平均の50%の水準に満たない。

紀元前10世紀頃よりウクライナの地には様々な遊牧民族が到来した。紀元前8世紀頃、騎馬民族のスキタイ人が、紀元前6世紀頃他民族を追い払い国家を立て、紀元前4世紀にかけて繁栄したが、紀元前3世紀頃に衰退し2世紀頃に東ゴート族が侵入し、3世紀中頃スキタイ人国家は滅亡。6世紀にはアヴァール族が侵入し、同じ頃移住してきた東スラヴ人を支配した。スラヴ民族はウクライナ中央部と東部に居住し、キエフの建設と発展に重要な役割を担った。

7〜8世紀にかけては「ハザール可汗国」の支配下にあった。8世紀頃に「ルーシ」国が誕生し、キエフがその首都となった。882年に北欧のヴァイキングがキエフを陥落させ、「キエフ大公国」を立てた後、周辺民族を征服し11世紀には約150万平方`の面積を誇る欧州最大の国家にした。ルーシ人は988年頃から、キリスト教(後の正教)徒になり、ウクライナはキリスト教文化圏になった。12世紀に領土争いで分裂し、大公の権威が衰退、1240年代にモンゴル帝国軍に亡ぼされた。

15世紀後半に、リトアニアロシア・クリミアが接する荒野地域で「コサック」という武人の共同体が成立し「サポロージャ・コサック軍」と名乗り、16〜17世紀前半にかけて、「ポーランド・リトアニア」の支配が及ばない地域で、軍人の特権と自治制を有し、ポーランド・リトアニアの援軍として多くの戦いに参加し、独断で隣国のモルドヴァ、クリミア、ロシア等へ遠征したり、水軍としてオスマン帝国下の黒海沿岸部を攻撃したり、更には傭兵として全ヨーロッパでカトリック側として活躍した。

しかし、軍人コサックは、貴族国家ポーランド・リトアニアで社会・宗教・民族的迫害を受け、しばしば反乱を起こした。1648年のコサック軍の「フメリニツキーの乱」の反乱はウクライナの独立戦争となりコサック国家が誕生した。1657年勃発のウクライナ内の反乱が「ウクライナ・ロシア戦争」へ発展。1659年「コノトプの戦い」で勝利したものの将軍が、コサック長老の支持を失い内戦となり、コサック国家はドニプロ川を軸にして二つに分裂した。

1689年、ロシアとポーランド・リトアニアに割譲され、1709年の「大北方戦争」の際、コザックはスウェーデンと同盟を結び、ロシアの支配から離脱しようとしたが「ポルタヴァの戦い」に惨敗。ロシアは徐々にコザックの引き締めを進め、1781年にウクライナのコサック自治制を廃止した。

18〜19世紀にかけて、ロシア帝国とオーストリア帝国によるウクライナの抑圧政策下で、ウクライナ人の民族運動が盛んになり、1806年にハルキウ大学が設立されると、歴史・文化・民俗研究が活発になり、1825年頃ウクライナの文化人、歴史学者、作家等に大きな影響を与えた。

1917年、「2月革命」でロシア帝政が崩壊し、3月に「ウクライナ中央議会」が成立。「10月革命」で、ソビエト政権が誕生すると、11月に「ウクライナ人民共和国」樹立の為、中央議会が「ウクライナ・ソビエト戦争」を起し、翌年1月に「人民共和国」の独立を宣言した。2月に「*赤軍」にキエフを占領されたが、翌日にはウクライナ・ドイツオーストリア同盟国の軍事力がウクライナを解放。3月に首都を奪還した。

しかし、ドイツの連合国へ降伏すると事態は一転、1918年12月に社会主義内閣が成立。1919年1月に「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」を樹立し、ウクライナ人民共和国軍、ソビエト「赤軍、ロシア帝政派「*白軍」、白軍を支援するフランス軍・イギリス軍・ポーランド軍、ウクライナ革命蜂起軍(無政府主義者)の「黒軍」、ウクライナのゲリラ「緑軍」等が争ったが、1920年ソビエト赤軍が勝利した。

一方、1918年10月に西ウクライナのウクライナ人は「西ウクライナ人民共和国」の独立を宣言したが、11月にポーランドが侵入し「ウクライナ・ポーランド戦争」が始まり、1919年7月にポーランドが西ウクライナ全地域を占領した。その後、1920年4月に西ウクライナを巡って「ポーランド・ソビエト戦争」が勃発したが、1921年3月の「リガ条約」でポーランドの支配が確定した。

1922年12月に「ウクライナ社会主義共和国」は、ロシア、ベラルーシ、ザカフカスと共に同盟条約によってソ連を結成。ロシアを中心とする中央集権的なシステムで、他の独立共和国はロシアの自治共和国となった。

共産主義のソ連に対してウクライナ人は、強く抵抗した為、ソ連下の集団化政策等により1921〜1922年、1932〜 1933年の2度の大飢饉に見舞われ、400万〜1,000万人が死んだ。この「拙速な集団化政策」は意図的なものだとする説が有力で、後者は「ホロドモール」と呼ばれ2006年にウクライナ政府によりウクライナ人に対する「ジェノサイド(人種・民族・国家・宗教などの構成員に対する抹消行為)」と認定。アメリカカナダイタリア等の欧米諸国でも正式に「ジェノサイド」であると認定している。

第二次世界大戦中の1939年にソ連とドイツは「不可侵条約」を締結し、欧州・東欧における独ソの勢力範囲を広げたが、1941年にドイツが「バルバロッサ作戦」を決行し、ソ連に侵攻し「独ソ戦」がウクライナを中心とした地域で約4年間続いた。当初はドイツが優勢で、ウクライナと、クリミア半島とクバーニ地方を支配下に置いたが、1943年「スターリングラード攻防戦」「クルスクの戦い」でソ連が戦の主導権を奪い、ドイツが占領した中欧の諸国への侵攻を開始し1945年5月にはドイツの首都ベルリンを陥落させ、ドイツ側の無条件降伏で戦いが終結した。これによりウクライナでも共産党の支配が強化され、中欧の諸国でもソ連系の政権が確立した。

この大戦でウクライナ人は、ソ連側、ドイツ側にも加わったが、一部は反ソ反独の「ウクライナ蜂起軍」としてウクライナの為に戦った。ウクライナは莫大な損害を蒙り、犠牲者は800〜1400万人とされ、ウクライナ人は5人に1人が戦死し、ウクライナの地は荒れ果て、700の市町と、約2,800の村が全滅した。

戦後もウクライナは「ソ連の一部」で、「ロシア化」が進められたが、1953年のスターリンの死後に、大粛清の犠牲になった多くのウクライナ人の名誉回復がなされ、また徐々にウクライナ文化の再興が水面下で活発化した。1954年、「ニキータ・フルシチョフ」により、クリミア半島(クリム半島)がロシアからウクライナに移管されたが、1972年にウクライナ人知識階級が大量に逮捕され、1976年には人権擁護団体「ウクライナ・ヘルシンキ・グループ」が結成されるが、弾圧された。大部分のウクライナ農民は、相変わらず収穫の大部分を国家に搾取され、人々の生活は一向に改善する気配が無かった。

1986年4月26日、「チェルノブイリ原発事故」が発生し、国内外に大きな被害が及んだ。ウクライナ地域には220万人程が住んでいたが事故後、汚染地域の外に「Slavutych」という街が作られ、原発で働いていた者達等を住まわせた。IAEAと世界保健機構(WHO)の調査では、この事故により直接的に56名が死に、この事故を原因とする癌によって4,000名程が死んだといわれる。1990年に一度原発を全廃したが、1993年より原発を再び稼働させた。

1960年代頃からの民族文化運動で、ソ連政府によって存在を否定され、弾圧され続けてきたウクライナ・カトリックは、水面下で根強く活動を続けて、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の強い励ましを受け、ついに1989年、ウクライナ語の公用化、ユニエイトの公認化が実現した。東欧における民主革命の成功も受けて、ウクライナ民族運動は最高潮に達していく。

民族主義大衆組織「ペレストロイカのための人民運動(通称"ルフ")」が結成され、1990年1月、大勢のウクライナ人は手と手を繋いで長い「人間の鎖」を作り上げた。3月には民主的な最高会議(国会)議員選挙が実現し、ルフを中心とする民主勢力が大きな勢力を占めた。7月、最高会議は「主権宣言」を採択。国家の権利をソ連から取り戻す事を宣言し、非核三原則も採択した。学生や炭鉱労働者によるストライキやデモは、民主勢力を更に後押し、ウクライナ共産党は分裂・衰退し、民主勢力へ走る者も出た。

1991年、ソ連崩壊に伴って8月に最高会議はウクライナの独立を宣言した。12月の国民投票でも、圧倒的に独立が支持され新たな独立国家「ウクライナ」となり、独立国家共同体の創立メンバーの一員となった。この独立をもって、ウクライナは1917年のキエフ・ルーシ崩壊以降、幾多の試練を乗り越えて、ついに独立が達成され、ウクライナ史上最大の領土を手にした。2004年、大統領選挙の混乱から「オレンジ革命」が起き、第三回投票で勝利した「ヴィークトル・ユシチェンコ」が2005年1月、大統領に就任した。

2005年3月、ロシア側より天然ガスの料金を国際的な市場価格にあわせてそれまでの優遇価格より倍以上に引き上げる要求で両国が対立、2006年にかけて欧州各国を巻き込んだ騒動となった。その後、野党勢力により内閣不信任案が可決される。2006年6月、ウクライナ最高議会選で与党「われらのウクライナ」が惨敗し、親欧米派の「ユーリヤ・ティモシェンコ」率いる「ティモシェンコ連合」と、「われらのウクライナ」および「ウクライナ社会党」の3政党で議会多数派を組む合意が成立したが、人事をめぐり議論は紛糾、3政党間の亀裂は深まっていた。

社会党は連合を離脱し、地域党、ウクライナ共産党の支持を受け、社会党党首が最高会議議長に就任した。その後、この3党は議会多数派の合意書に調印し、大統領に対し、地域党党首「ヤヌコーヴィチ」の首相指名を提案。結果、8月に親露派の「ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ」内閣が成立したが、大統領との権限争いで議会も分裂し最高会議は解散し、2007年9月に臨時最高会議選挙が行われた。12月、「ティモシェンコ連合」と「われらのウクライナ」が連合する形で親欧米派の「ティモシェンコ」内閣が発足した。

国内には、ユネスコの世界遺産に登録された文化遺産が8件、自然遺産が1件ある。それらの「登録名称」と登録年は、

◎『文化遺産』: ◆「キエフの聖ソフィア大聖堂と関連する修道院群及びキエフ・ペチェールシク大修道院」1990年、 ◆「聖ソフィア大聖堂」1990年、 ◆「キエフ・ペチェールシク大修道院」1990年、 ◆「リヴィウ歴史地区」1998年、 ◆「シュトルーヴェの測地弧」2005年、 ◆「ブコビナ・ダルマチア府主教の邸宅」2011年、 ◆「ケルソネソス・タウリケの古代都市とその農業領域」2013年、 ◆「ポーランドとウクライナのカルパティア地方の木造聖堂群」2013年。

◎『自然遺産』: ◆「カルパティア山脈のブナ原生林とドイツのブナ古林群」2007年登録・2011年拡大登録。

「ウクライナ」の風景はこちら

※≪『赤衛軍(ラボーチェ・クリスチヤーンスカヤ・クラースナヤ・アールミヤ)』: 略称、労農赤軍。1917年より始まったロシア内戦の最中に、ボリシェビキ党(レーニン)指導のもと組織された労働者の武装集団「労働者・農民赤軍」。1918〜1946年にかけてロシアおよびソビエト連邦に存在した軍隊「赤軍」ひいてはソ連軍の原型。1937年に、海軍が赤軍から独立した後はソ連の地上軍(陸軍)を指す呼称となった≫

※≪ 『白衛軍(ビェーラヤ・アールミヤ)』: 白軍ともいう。1917年ロシアのプロレタリア革命により、フィンランドは独立したが、独立直後の政情不安と混乱を突き、共産主義者である赤衛軍がフィンランド各地で反乱を起こした。革命側赤軍に対し反革命側の外国軍のソ連領内出兵などを利用して、旧社会体制復活を目指して戦った軍事諸団体を総称する非公式の名称。≫

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※ ≪2014年の「ウクライナ騒乱」と「ロシアによるクリミア自治共和国の編入」:
2010年、大統領選挙で親露派の「ヤヌコーヴィチ」と、親欧米派の「ティモシェンコ」が激突した。決選投票の結果、ヤヌコーヴィチが勝利し、ウクライナは再び親露派に率いられる事となった。2013年11月にヤヌコーヴィチが欧州連合との「政治・貿易協定」の調印を見送った事で、親欧米派や民族主義政党「全ウクライナ連合・自由」等の野党勢力等による反政府運動が勃発した。

ソチオリンピック開催中の2014年2月には、野党勢力群集の「暴力示威行為」やこれを制圧しようとする「政府治安部隊」との衝突等で双方に多数の死者が発生、2月22日に「最高議会」はヤヌコーヴィチ大統領の解任と大統領選挙の繰り上げ実施を決議するに至り、ヤヌコーヴィチはロシアに逃亡した。この「2014年ウクライナ騒乱」により親露派政権は崩壊し、「オレクサンドル・トゥルチノフ」大統領代行と「アルセニー・ヤツェニュク」首相による親欧米派の新政権が発足した。

これを受けて、3月1日にロシア上院がクリミアへの軍事介入を承認。「ウラディミール・プーチン」大統領は、ウクライナの「極右民族主義勢力」からクリミア半島内のロシア系住民を保護するという名目で本格的に軍事介入を開始した。なお、ロシアは否定しているが、2月後半の時点から「現地クリミア住民による自警団」に偽装させたロシア軍部隊をクリミアに進軍させていたと見られており、西側メディアは国章を付けてない軍服を着てバラクラバで覆面した兵士達を「ロシア軍部隊とみられる謎の武装集団」として報道していた。

このロシアの侵攻に対して、ウクライナ新政権と親欧米派の多いウクライナ西側地区の住民は侵略であるとして強く反発したが、ロシア系住民が多く、元より親欧米派の動きに反発を覚えていたクリミア自治共和国およびセヴァストポリ特別市の住民は「ロシアのクリミア侵攻」を歓迎、クリミア自治共和国最高会議とセヴァストポリ市議会は3月11日にクリミア独立宣言を採択した上で、3月16日にウクライナからの独立とロシアへの編入を問う住民投票を行い、その結果、翌17日にウクライナからの「クリミア共和国」の独立とロシアへの編入を求める決議を採択した。

ロシアのプーチン大統領は同日中にクリミア共和国の主権を承認した上で、翌18日中にクリミアのロシアへの編入要請受諾を表明し、クリミアの「アクショーノフ首相」と「編入に関する国家間条約」に署名した(ロシアによるクリミアセヴァストポリの編入)。欧米諸国はこれらロシアの動きが国際法違反の侵略で、ウクライナからのクリミアの独立とロシアへの編入は無効であるとして、ロシアへの制裁を実施した(2014年クリミア危機)。≫

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2016年02月17日 | 仕向地ミニ情報 | ヨーロッパ一覧

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