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ブルガリア (BULGARIA)

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ブルガリア (BULGARIA) : 

公式国名、ブルガリア共和国(Republic of Bulgaria)。ヨーロッパ南東部、バルカン半島の黒海岸にある人民共和国である。面積、110,910平方`(本州の約半分)。人口は、2000年推計で7,796,694人が、2008年調査では7,545,000人と減少傾向にある。人口密度は、68人/平方`。人種、ブルガリア人85%、トルコ人10%、*ロマ人(ジプシー)3%。言語、ブルガリア語(公用語)。宗教、ブルガリア正教85.5%、イスラム教13%、カトリック1.5%、ユダヤ教0.8%。首都は「ソフィア」

地方行政は全部で28州に分けられ、ソフィア州の州都はソフィアに置かれているが、首都ソフィアはソフィア州とは異なる独自の自治体で、ソフィア州には所属していない。ブルガリアの主要都市は、ブルガス (BURGAS)プレヴェン (PLEVEN)プロヴディフ (PLOVDIV)ソフィア (SOFIA)ヴァルナ (VARNA)など。

バルカン半島東部に位置し、北にルーマニア、西にセルビアマケドニア共和国、南にギリシャトルコと隣接し、東側は「黒海」に臨む。中央を東西に走るバルカン山脈で二分され、北部はドナウ峡谷の斜面とドナウ川流域の平原で、南部はソフィア盆地と丘陵地である。南部では夏は高温乾燥、冬は温暖湿潤の地中海性気候。北上するにつれて大陸性気候となり気温の年較差が大きく冬季の寒さが厳しくなる。北部では夏季の降水量も多い。

2010年のブルガリアのGDPは約448億jであり、日本の青森県とほぼ同じ経済規模である。社会主義体制のもとで農業の近代化と工業化が進められてきた。小麦、トウモロコシを中心とした混合農業で、タバコ、ブドウ、バラが輸出される。ジャムとバラの香水は名物。工業は従来からの食品加工、繊維に加え、1960年代からソ連の援助で、鉄鋼、機械、電子工業が発展した。しかし、経済は1989年から劇的に縮小した。特にソビエト連邦を中心とした東欧の市場を喪失した事は大きな打撃となり、生活水準は1989年以前の約40%にまで落ち込んだ。

更に、ユーゴスラビアに対しての国連の経済制裁は経済に更なる打撃を与えた。1994年には、国内総生産の成長と共にインフレーションを抑制する等、回復の兆しを見せた。しかし1996年には貧弱な経済改革や、不安定な銀行システムにより再び悪化し金融危機に陥った。1997年以来政府は、2007年に向けてマクロ経済の安定と、国内総生産の毎年4〜5%台の成長、欧州連合 (EU)への加盟を表明した。

トラキアで紀元前4,000年頃のものと思われる黄金製品の遺物を多数持つ遺跡群が確認されており、考古学者の間で新しい「文明」なのではないかと論じられている。7世紀までは東ローマ帝国領。5世紀以降、スラヴ人が侵入し、次いでテュルク系の遊牧民族ブルガール人が侵攻して征服。スラヴ人を支配下に置き、西暦679年、ブルガール人の第一次国家「ブルガリア帝国」)を建国した。ブルガール人はスラヴ人より人口が圧倒的に少なかった為に10世紀までにスラヴ人と混血・同化し、現在のブルガリア人が形作られた。

第一次ブルガリア帝国は、11世紀に東ローマ帝国に滅ぼされ、再び東ローマ帝国領となるが、12世紀末に再び独立した(第二次ブルガリア帝国)。しかし、第二次ブルガリア帝国は1242年のモンゴル人の侵攻によって打撃を受けて衰退し、1393年にトルコ人のオスマン帝国に滅ぼされた。以後、500年間もの長きにわたるオスマン帝国の支配下に置かれた。この結果、現在に至るブルガリアの言語、風俗等に多大な影響を及ぼしている。

1878年、露土戦争に敗北したオスマン帝国がサン・ステファノ条約を受け入れた為、ブルガリアは大ブルガリア公国として独立。しかし、事実上ロシアの保護国であった事と、領土がエーゲ海まで伸張した事がロシアの南下政策を容易にさせる事に対し、イギリス、オーストリアなどが懸念を抱いた。その為、ベルリン条約でブルガリアの領土を縮小してロシアの南下政策を牽制し、ロシアの政治的影響を弱めさせた。

1908年、オスマン帝国で青年トルコ人革命が勃発した事に乗じて、独立を宣言、1909年に国際的に独立を承認され、ブルガリア王国が成立した。ブルガリアの君主として当初はバッテンベルク家、後にはザクセン=コーブルク=ゴータ家とドイツ諸侯が迎えられた。1912年、ギリシャ、セルビア、モンテネグロとバルカン同盟を結びトルコとバルカン戦争(第一次)を戦う。1913年、第一次バルカン戦争の戦後処理をめぐり、セルビア、ギリシャと対立。第二次バルカン戦争を行い敗北する。第二次バルカン戦争では、ルーマニア、モンテネグロ、トルコもブルガリアと対立。孤立無援となった。1915年に、第一次世界大戦では同盟国側に参戦した。

1941年、ナチス・ドイツと軍事同盟を締結する。しかし、ホロコーストには抵抗して本国からの移送を阻止し、枢軸国勢力下では戦中期にユダヤ人の人口を増加させた唯一の国でもあった。1944年にはソ連の侵攻を受け、王政が廃止され共和制(ブルガリア人民共和国)が成立し、ソ連の衛星国家となる。

1989年に共産党政権が崩壊し、2001年には元国王の「シメオン・サクスコブルクゴツキ」が首相に就任した。2007年、欧州連合 (EU) に加盟。加盟に際しては、改革が不十分であるとして、欧州理事会によって再審査されたが、加盟後も改革を続行するとして承認された。しかし、加盟時にはEU最貧国であり、加盟後には若年労働者や知識層が高収入を求めて西欧へ流出する事が危惧され、ブルガリアの国力低下と共に、低賃金労働力が流入する西欧諸国との軋轢が拡大する事が懸念されている。

ブルガリア国内には、ユネスコの世界遺産に登録された文化遺産が7件、自然遺産が2件存在する。登録名と(登録年)は、

◎『文化遺産』としては、 ◆「ボヤナ教会(1979年)」、 §「マダラの騎士(1979年)」、 ◆「カザンラクのトラキア人の墳墓(1979年)」、 ◆「イヴァノヴォの岩窟教会群(1979年)」、 ◆「ネセバルの古代都市(1983年)」、 ◆「リラ修道院(1983年)」、 ◆「スヴェシュタリのトラキア人の墳墓(1985年)」。 

◎『自然遺産』:としては、 ◆「スレバルナ自然保護区(1983年)」、 ◆「ピリン国立公園(1983年)」 である。

「ブルガリア」の風景はこちら

※<『ロマ(Roma)』: 「ジプシー」と呼ばれてきた集団の内の主に北インドのロマニ系に由来し中東欧に居住した移動型民族。移動生活者、放浪者とみなされているが、現代では定住生活をする者も多くいる。ロマの祖であるロマニ系の人々が複数の経路で度々インド方面からヨーロッパへ移動してきたと考えられている。14〜19世紀に現代のルーマニアに当たる地域で奴隷とされた集団が言語学的にロマに近いと考えられている。一方で東欧を迂回し中欧にたどり着いた集団はルーマニア語の影響のない非ヴラハ系方言を話している。1971年の第1回「世界ロマ会議」以降は、「ロマ」を呼称とすることが提唱され、EU はじめ各国の行政等もこの名称を採用している。>

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2015年08月25日 | 仕向地ミニ情報 | ヨーロッパ一覧

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